人付き合いからしか得られない栄養素

自分は本当に人付き合いが苦手で、

というか苦手感きわまって遠ざけてたら全然できなくなってるし、

職場もほぼ1日喋らないという感じで、

マジでヤバい。

 

コミュ力とかそこまでのものではなくて、

たまに人に会ったときのちょっとした振る舞いとか受け答えが、本気でできない。

後から思い返して、ちょっとこれ失敗したかもと思ってマジでつらい。

 

でも一方で、毎日そんな感じで退屈で、なんというか空疎だ。

たまに家族や友達と会うと、スマホを見る時間が少なくなるし、

さらに嫌な記憶の自動再生もなくなる。

楽しい時間とはこういうことを言うのか。

余計なことを考える暇がなく、充実していると感じる。

それが終わってまた会社へ行く日常が始まるのが辛い。

けれどもそんな充実した日は、それほど頻度が高くない。一年に数日ほどだ。

この数日で、一年分の生きていく栄養みたいなものを、なんとか得られている。そうではないかと思っている。

本当はその栄養はもっと必要で、今は最低限の量しか得られていないから、しんどいのだろう。

 

その栄養がもっとたくさん得られたらいいのにと思う。

職場では無理だ。もし自分に家族がいたら、日常的に得られるのかもしれない。

その栄養が恒常的に得られるようになったら、生きていく不安もなくなるのかもしれない。自分が色んな人と関わって、人間関係に包まれていると感じることができたなら。

 

けどそれをまさに自分が阻んでいる。

人が苦手で、人に興味を持てなくて、怠惰で人付き合いの努力をせず、ただ人と関わることで得られる栄養が足りないと嘆くばかりで。

そういうものは、新しい安定した人間関係というのは、どうやったら手に入るのだろう。

いや手に入るとか、そこまででなくていい。一端に触れられたらそれだけでもいい。依存してしまう気がする。

 

とにかく今の生活は、退屈で変化がなくて、人との関わりもなく、気がおかしくなりそうだ。

これまで無為に勤めてきた。

怠惰が骨の髄まで染み込んでいる。

どうすればいいんだろう。

しんどいとしか考えられない。

 

後悔する話題

ちょっと会食の機会があって、いつもながらコミュ障の自分は借りてきた猫のように大人しくしてたわけですが、

たまたま航空会社の話になったときにLCCの名前がいくつか出てきて、そこで「ジェットスターはよくない」と言ってしまった。

ちょうど労使問題をニュースで見ていて、使用者側がマジでありえないと思ったので、ついそんな風に口を挟んでしまったんだが…

冷静になって考えてみたら、労使関係がどうとかって会食って場には相応しくない話題だよな…。

そんな話しなけりゃよかった…。

 

他になんか良いこと言えただろうか、あんまり覚えていない…。

 

寝不足はすべての敵

最近ぜんぜん頭の中まとまんねえな…と思ってたが、今日はなぜか思考がある程度わかる文章にまとまってた。

たぶん昨日とか一昨日に早寝したおかげだ。昼間もなんとなく元気だったし。

そうか俺疲れてたのか…と自覚ができた。

早食いと食べてもすぐ腹減るのに悩んでたが、これも寝不足のせいだったのか。

てかアレルギーの薬のんだ飲んでるところに夜ふかしなんてしたら、そりゃあ調子悪くなるか。

 

今夜もちゃんと早めに寝る。そうする。

 

気力と体力が足りない

なんというか、子供の頃に比べて体力が減ってるのはもちろんのこと、

やけに疲れている気がする。

暇なのに会社の椅子に座って、なにか仕事をしている振りをしないとならない。これは一番疲れる。

判を押したようによく似た日々が繰り返され、それを遂行するしかないことに倦んでいるのも要因だろう。

 

暇を埋めるために、しかし仕事をする振りをしないとならないために、

パソコンに向かって適当なウェブメディアを見たり、スマホを見たりする。

可能ならがっつり本を読みたい。その方が圧倒的に時間の有効活用になる。それに液晶を見る時間も減るので、眼精疲労を軽減できる。

 

でもなあ。

仕事する振りをしなきゃならない以上、どうやったってその時間は無駄なんだよなあ。

 

つまんないなあ。

 

SNSの孤独よ

家と会社を行き来するばかりで休日にも特に人と会うことなく過ごす今日このごろ、

SNSを見ると色んな人と人がリプライし合っており、

また目に入るのは誰かがシェアしたくてシェアするポストゆえいいね等がたくさんついており、

わずかな友人知人は他の友人知人と共に出かけた写真をアップしており、

生活のための外出のみで、大したこともせずうちにこもっていた自分がとても孤立しているように思える。

 

ヨガのポーズの選択肢

ヨガに通い始めて一年くらい経った。

運動音痴で運動嫌いな自分でも、続けられるというのが何よりの驚きだった。まあ大抵のヨガスタジオは初心者を相手にしているから、低レベルのクラスもたくさん用意されてるし、体力なし・運動不足の自分には合っていたのだろう。

運動不足もそうだが、肩こりなんかが酷いのもヨガを始めた理由の一つだ。

肩こりがものすごく改善された!ということは、今のところない。それを第一に考えるなら筋トレの方が効果的だと思う。全身まんべんなく動かした方が、血行が良くなって凝りが緩むはず。

 

それより良いなと思ったのは、いくつもヨガのポーズを取る中で提示される「選択肢」のことだ。

インストラクターの先生はもちろんプロなので難しいポーズも余裕でできる。

そして初心者である自分や他の生徒には、一見簡単そうでも、そこの関節が硬かったり、筋肉が凝り固まってたりして、どうやってもできないポーズというのがある。

そのとき、先生が言うのがこれだ。

「もし✕✕がつらかったら、一つ前の(少し楽な)ポーズに戻ってください」。

例えば三日月のポーズというのがある。両腕を頭上に伸ばして胴体を逸らすポーズで、このとき両手は合掌させる。でも、

「肩が詰まる場合は手を離していてもいいです」

と先生は別のやり方を提示してくれる。

 

これが本当に有り難くて、要するに今まで自分が運動嫌いだったのは、これがなかったからではないかと思った。

もしこれが、学校の体育や部活、子供向けのスポーツクラブだったら、「正解のポーズをひたすら目指す」よう指導されただろう。

しかし生徒全員にその筋力や体力があるわけではない。その人の体の事情によってはできないポーズがある。それでも「正解」意外は許されない。そんな雰囲気が強い。

もし代替案が提示されたとしてもやはり代わりに過ぎず、低レベルで妥協していると下に見られたのではないか。そうでなくとも、自分でそう思い込んでしまう空気はある。何故なら、一つクリアしたら次、更に上を目指すよう言われるからだ。

自分が嫌いだったのはそういう完璧主義だったのではないか。

 

 

 

ヨガの先生がよく言うのは、ヨガを頑張りすぎるのではなく、ポーズを通して今の自分を見つめてみましょう、ということだ。

このポーズでは足のこの部分が辛い。こないだはできなかったポーズが今日は上手くいった。など、自分を定点観測すること。

もしかするとこれは、初心者生徒たちを励まして利用を続けてもらうためのリップサービスなのかもしれない。

でもその定点観測をしたり、観測結果によって今の自分に合ったやり方を選んでいいという場は、これまであまりなかったなあとこれまでの人生を振り返って嘆息するのであった。